会派視察 湯布院

 8月27日 一般社団法人湯布院温泉観光協会を視察しました。
 官民協働で「一般社団法人湯布院温泉観光協会」を作って湯布院の観光をっ支えておられました。
 
 古くは豊後国速見郡に点在する別府十湯の一つに数えられていたが、大正時代の行政区画の変更により塚原温泉とともに別府十湯から外れた。その結果、別府温泉は現在の別府八湯の形となった。現在でも、由布院温泉は「別府の奥座敷」とも言われる。

 昭和20年代後半、由布院町は深刻な財政危機にあった。そこで当時、多くの湯治客で賑わい、財政の豊かであった湯平村と、1955年(昭和30年)に昭和の大合併の一つとして合併し、湯布院町が誕生した。

 

 反対運動のリーダーで青年団長であった医師・岩男穎一が初代町長に当選する。岩男町長は「産業・温泉・自然の山野の三つの融合」を掲げ、健全な保養温泉地づくりへと邁進した。戦後の高度成長が始まろうとして、「観光開発」により将来の明るい夢がひらけると地方の多くの人が信じていたこの時期、温泉地の歓楽街化に反対し、由布院の自然や環境を守ろうと町をあげて取り組みました。

 

 岩男は20年近く町長を務めた。なお、岩男は当時農業協同組合組合長も兼務しており、中谷らの欧州研修旅行費用(後述)は農業協同組合から借りた話は有名である。

 欧州でつかんだもの1971年(昭和46年)6月、「明日の由布院を考える会」の中心メンバーだった志手、溝口、中谷の三人の青年は、欧州へ50日間に及ぶ町づくり視察研修旅行に旅立つ。そして、西ドイツ(当時)の保養温泉地構想を学んだ。先に西ドイツを視察し、理想の保養温泉地を頭に描いていた岩男町長はじめ関係者の大きな期待がかかっていた。欧州でつかんだもの、それはその後の由布院のありかたを決定付けました。

 

反対運動
 ダム反対運動・ゴルフ場計画に反対・「リゾート」「開発」に抗して〜成長管理

 

 昭和40年代から町ぐるみで毎年夏に映画祭や音楽祭を開催し、歓楽色を排して女性が訪れたくなるような環境整備を続けてきた。バブル期の大型開発計画には適正な規模や景観を守るため抵抗。人気の過熱が続く現在も、温泉のあり方についての模索が続いている。

黒川紀章氏の建築した一般社団法人湯布院温泉観光協会

 

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