得月楼

 4月2日高知市「ひろめ市場」を視察して後、夕食を『得月楼』で取りました。昭和初期の花柳界を描いた宮尾登美子作「陽暉楼」の舞台となりました。映画化されたこの小説の舞台となったのが当時稲荷新地にあって隆盛を誇った得月楼です。初代寅八は、竜馬の実家である才谷屋の近くの 鮎屋の四男として生まれ、幼いころから魚を売り歩いていました。もしかすると、幼い頃の寅八と竜馬の間には交流があったのかもしれません。現在は5代目で、その当時からの梅の鉢が有名で1月~3月まで200鉢を各部屋に飾り、客をもてなすそうです。私たちが行ったときは梅は終わっていて残念でした。料理は皿鉢料理でとても美味しかったです。別に焼きサバ寿司を頼みました。とても美味しかったです。有名な料亭に行きとても優雅な気分になりました。

(ツーリストのクーポンで一人1万円でした)

 

陽暉楼
 江戸時代、土佐藩では芝居や料亭は厳禁されていたが、明治に入り解禁となった。禁制が解かれると鏡川湖畔にお茶屋町・玉水新地ができあがり、 妓楼や芝居小屋では毎夜三味線や鼓の音が鳴り響き、男女が歓楽する町として賑わった。
 陽暉楼は明治三年に創業。すでにいくつか大楼があったが当時としては斬新な企画を次々と開催した。書画会を起こし、文人墨客を集め土佐ではじめて大墨画会を催したり、会席料理の導入、 大広間に著名人の絵や書をかかげたりした。やがて名が高まり、連日賑わうようになった。
 明治11年、中秋の名月の日に熊本城から凱旋した将軍谷千城の帰国祝いをかねて観月会を開催。その時、谷千城が「近水楼台先得月、向陽花木易為春」の詩から「陽暉楼」を「得月楼」と命名した。

 

玄関にある看板

良く手入れの行き届いた庭

風格のある大広間

大広間の床の間

 

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